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CIAのスパイ監視記録に写った〝数百の砦〟の正体

冷戦時代におけるCIAの古いスパイ監視記録から、396箇所のローマ時代の砦や砦のような建物が発見されました。この砦は外敵の侵入を防ぐものだと考えられてきましたが、そのスパイデータから今までの定説が覆る可能性があることが判明しました。この新しい説について、海外メディアの「Science Alert」が解説しています。

*Category:サイエンス Science *Source:Science Alert ,CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS

砦が文化交流の拠点だったという説が浮上


1960年代と1970年代に現在のシリアとイラクで撮影された写真は、1990年代に機密扱いから外されました。さらに最近では、2011年に機密扱いから外されたものもあり、2020年と2021年になってようやく広く利用できるようになりました。

これらのスパイデータを総合すると、砦は古代ローマ帝国の東部辺境に網の目のように東西南北へ広がることが明らかになったのです。アメリカのダートマス大学の研究者がまとめたこの発見は、これらの国境地帯に関する100年来の仮説を覆すものでした。研究者たちは、砦は外国人の侵入を防ぐためのものではなく、東と西を結ぶために建設され、軍隊、物資、貿易の安全な移動を可能にしていたと主張したのです。

1920年代、イエズス会のアントワーヌ・ポワドバール神父は、飛行機を使ってヨーロッパの古代ローマ遺跡を発見するというアイデアを思いついきました。帝国の東部辺境一帯で行われた、ポワドバール神父の空中ミッションは、1000キロを超える国境地帯に数百ものローマの要塞を発見しました。それ以来、考古学者や歴史家によってこれらの遺跡の目的について議論されてきましたが、一般的には、砦はおおまかな南北の線に沿って走っていると考えられていました。

しかしダートマスの研究者たちは、その考えは「発見バイアス」に基づくものだと主張しています。彼らのスパイ衛星データの分析によると、この地域の一連のローマ要塞は、現在のイラクのチグリス川の一部とシリア西部を結ぶ巨大な東西軸に沿っていたのです。


研究チームは次のように述べています。

The distribution of these forts suggests that they did not function as a border wall, with a series of towers and fortified encampments designed to block westward incursions by Persian armies or to prevent raids on agricultural villages by nomadic tribes.


— 引用:CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS

訳:これらの砦の分布は、ペルシャ軍による西方への侵攻を阻止するため、あるいは遊牧民族による農村への襲撃を防ぐために設計された一連の塔や要塞化された野営地が、国境の壁として機能していなかったことを示唆しています。

その代わりに研究者たちは、以前から一部の考古学者や歴史家によって提唱されていた、「キャラバンを基盤とした地域間交易、通信、軍事輸送のシステム」を要塞が支えていたという別の仮説を主張しました。つまり、これらの砦は必ずしも外敵に対する障壁ではなく、東西地域を結びつける文化交流の場であったというのです。

この経路は、キャラバン隊が乾燥したシリアの草原を安全に移動することを可能にし、ラクダや家畜、および人々に、飲み水や食事、さらには眠る場所の提供を行ったのでしょう。例えば、著者らによれば、シリアでは川の近くに特に密集しており、旅人たちに常時、水を供給したと言います。

塔のように小さく四角い砦もあれば、複数の建物と城壁を持つ大規模で複雑な要塞のようなものもありました。これらの発見は、戦略的にオアシスを守ったり、あるいは地元の遊牧民グループに対する防御であった可能性が高いと主張した過去の学者たちの見解を裏付けています。


しかし、歴史家たちがこの地域について知っていることや、近隣の考古学的遺跡の年代を考慮すると、これらの砦は2世紀か3世紀にローマ人によって築かれ、6世紀頃に放棄されたと考えられます。ダートマスの研究チームは、「空中考古学調査のパイオニアであるポワドバール氏の功績や、彼が行った重要な発見を減殺するものではない」と述べています。この地域全体の砦の分布について全く新しい視点を提供し、その軍事的、政治的、経済的機能に関する議論を再開させるものである、と研究チームは考えています。

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